2014年7月10日木曜日

旧芝離宮恩賜庭園  ー 身体の移動と石組み ー


旧芝離宮恩賜庭園
  ー 身体の移動と石組み ー
 
雨の日の庭は良い。しっとりと垂れる藤の花の先、池の中央に、雨に煙る中島=蓬莱島の壮大な石組みが見える。
4月の終わりに旧芝離宮庭園を歩いた。江戸時代初期の庭として知られる。かつて行った記憶はあるのだが、晴れた日のホコリ臭く黒ずんだ石の記憶ばかり残っていた。
今回は連休の合間だが、雨の中で人のいない庭の広がり、新緑、石、全てが新鮮に感じられた。


藤の花と遠望する中島(=蓬莱島)

少し早く作られた金地院庭園の場合は見る人の身体の移動を前提とはしていない。室町時代の大仙院庭園は身体と視線の移動を使って構成しているが、移動が廊下に限定されているので、庭園の中に身を置く環境と身体の関係というよりは、一方的に眺める視線の移動に限定されている。

対して芝離宮庭園の庭は、身体が移動することによって、視線と石組みの関係が大きく変化する、そのことによって構成しているように思われる。

生類憐れみの令で名高い将軍綱吉に縁の深い庭である。古くは伊予松山藩主加藤嘉明の藩邸、1678年(延宝6)、唐津藩からのちに小田原藩主に転封された大久保忠朝が拝領、庭を大改造して楽寿園と称したという。1694年(元禄7)と1695年(元禄8)、将軍綱吉の御成りがあり、御殿とともに、御成りの庭として完成されているはず。とりわけ中島を中心とした中央部は将軍綱吉のために、綱吉が気に入るように作られたのでは、と想像される。石組みの豪快さ、派手さは、狩野派による二条城障壁画同様、将軍と武家の権力と地位を誇示しながら、中島(蓬莱島)、護岸、築山、枯滝と様々な石の組み方を見せてくれる、今に残る大名屋敷の庭園の代表格だ。

 
中央が中島(蓬莱島)
    
別方向からの中島(蓬莱島)近景

池の中央、蓬莱山を表現する中島の石組みの迫力。これでもかと言わんばかりに畳み込んで来る。中島は高さの異なる二つの山からなり、池の全周囲から見る事ができる石組みになっている。島には中国趣味の西湖堤が掛かる。元来は人が立ち入ることのない、仙人の住む蓬莱島に橋が架けられるようになるのは武家社会になって、その力を誇示するためであるという。


廻遊路を挟む枯れ滝石組


西湖堤が掛かる池の手前、やはり庭園全体の中央部を成す大きな築山の間に、とても特徴的な枯滝石組みがある。本来は人が歩くことのない、眺めるだけの枯山水の流れが、道になっていて歩ける。ここでは眺める石組みから、見る人の身体の動きと一緒に展開する、体感される石組みが構成されている。大仙院庭園の枯れ滝石組を思い起こすと、違いがより明瞭になる。歩く人の両側から大きな石組みが迫る、他にない石組みだ。観想する対象から体感する対象に変化している。


    
文中の護岸石組みを正面方向から望む



件の護岸石組み最上部に見える石組

庭園入り口側から中島と同時に眺められる、池の左側護岸石組みは、水際から園路まで迫り上る壮大な石組みを見せる。その護岸石組み最上部の大きな石は正面から見るとボリュームを感じるのだが、園路を回りながら側面を見ると、薄い石が斜めに地面から突き出していて、昭和の看板建築のようでさえある。正面の見え方と意味とは別に、斬新な石の立て方の面白さを感じる事ができる。正面視される遠望では護岸最上部石組みにも見えながら、その実、独立して斜めに立っている薄い岩。根府川山の側面と同様な仕組みだ。


    
根府川山を正面から見る


根府川山石組みを側面から見る



中島から八つ橋を渡って大島を抜け、少し奥まった所に根府川山がある。根府川は大久保忠朝が唐津藩から転封された小田原にあり、石が有名だ。元は忠朝の祖父が藩祖、里帰りでもある。築山に渡る大きな石橋はその根府川石だろう。築山は正面から見るとあたかも山のように池に向けて片側斜面に石が組まれている。正面からは中島と似たような石組みに見えるが、側面からの眺めの迫力に驚ろかされる。正面の形と意味とは異なる、石の組み方自体の面白さを見せている。池に向かう斜面に、次々になだれ落ちるかのように組まれた大石が迫力だ。この庭で最も好きな石組みである。明らかに廻遊路を巡る人の移動、視線の移動による石の見え方の変化を意識した、劇的とも言える石組みであり、象徴的な意味に縛られない、見る事自体による石組みになっている。石を組んだ人の気持ちが伝わって来るようだ。



庭園奥にある唐津山


園路をさらに進んで、池から離れた場所に唐津山という銘のある石組みがある。築山にもなっていない平たい地面に石だけで組まれている。それだけに石組み自体を見せていると言えるかもしれない。渋く、押さえた力強さがあり、石組みとしては古典的な、西芳寺の枯れ滝石組などをも想起させる。

唐津は大久保忠朝が小田原藩の前に相続した地であり、そのことを記念してのものか。奥まった場所に築山もなしに組まれていることに大久保忠朝の人柄が忍ばれる気がする。新たな任地、小田原を表現していると思われる根府川山も池の外で片側斜面であり、池の周囲全てから眺められる将軍綱吉=幕府の権威の象徴としての中島より、場所、作り方ともに格下に見えるように作られている。難しい将軍に仕えた大久保忠朝の深い配慮を感じるのだが、根府川山の石組み自体は側面から見た時に、中島より石が大きい事、片斜面であることにより、全周囲から見られる、完全な山である中島よりも、かえって迫力が感じられると思う。


この庭園の石組みは特徴的であり、廻遊路を移動する身体と視線の移動によって見え方が大きく変化する、石の組み方の様々を見て楽しむ事ができる。また、石組みの意図がよく伝わってくるように思う。
(美術家 古川流雄)

付記:今回の取材は4月30日、5月9日に行っている。

参考文献
1、「日本の10大庭園  何を見ればいいのか 」 重森千青著
  祥伝社 2013年
2、「図解 庭師が読み解く作庭記」  小埜 雅章著
  株式会社学芸出版社 2013年
3、「名園を歩く 第4巻 江戸時代初期Ⅰ」 写真:大橋治三 解説:斎藤忠一
  毎日新聞社 1989年