2015年10月8日木曜日

「絵画以後」の芸術類型 ーフランク・ステラを一例としてー


「絵画以後」の芸術類型
ーフランク・ステラを一例としてー

1970年代末から1980年代初頭には「絵画以後」という概念による芸術の新たな類型への思考が確かにあった。
今はすっかり忘れ去られたその動きこそが私自身の芸術の基盤になっている。

1980年秋、藤枝晃雄氏によって企画された「感情と構成」展、それに先立つ同氏の『現代美術の展開』はフォーマリズムとアンチフォーマリズムの接合点という位置の存在とその可能性を示唆していた。それこそが「絵画以後」の芸術類型の立ち位置ではなかっただろうか。
1983年と1984年には早見堯氏による「内面化される構造」展があり私も参加させていただいていた。その概念的立脚点も近い場所にあったと理解している。しかし、この芸術上の新たな位置は、その後に美術界を席巻することになる新表現主義をはじめとする、芸術としての理由なき絵画の流行と市場主義によって忘れ去られて行くことになる。 

「絵画以後」という概念は絵画を否定するものではなく、絵画のあり方に意義を申し立ててそれとは異なる視覚表現を志向する、絵画の視覚を編み直すと言った方が良いだろう。その一例になるのがフランク・ステラの展開だ。シェイプトキャンバスはそれ以前の絵画が無条件に前提していた枠の形、方形ではなく、描かれた形態がそのままに現前する新たな絵画のあり方を示した。その後、さらに表面がやはり以前の絵画で無条件に前提され疑問視されることもなかった平面から離れ、様々な角度を持ったパーツが重なり合い全体を編成するレリーフコンストラクションとして、現前を三次元で作り出している。近年ではレリーフコンストラクションにまだ残存していた平面の名残り(パーツが平らなアルミハニカムから切り出されていることによる)が払拭されて、曲面になっているのは当然の成り行きに思われる。その曲面になったパーツも鋳造による彫刻的なものであったものが、最近では三次元の薄い膜状になっているのが私としては興味深い。


Frank StellaEmpress of India1965
© 2015 Frank Stella / Artists Rights Society (ARS), New York


Frank StellaKastura1979
© 2015 Frank Stella / Artists Rights Society (ARS), New York


ここに至って大きく変化、浮上しているのは、作品とともに芸術を成立させる観照者の身体、そして時間との関係である。
以前の絵画では画面の正面、作品を一望できる中央に立つことが基本であり、そこから眺められることが前提されている。観照者は通常その場所から作品を一瞥することでひとつの確定したイメージを持つことが想定されている。そこには観照者の身体と時間の関与はさほどなく、視線、視点が重要になっている。

ステラのレリーフコンストラクションでは観照者はひとつの場所で見るだけでは作品の有り様全体を把握することはできない。作品との距離を変化させ、また左右に自らの身体と視線を移動させたりしながら作品の有り様全体を把握しなければならなくなる。観者の身体の動きとともに生起する観照の時間の中で感覚体験を持続的に積み重ね変化させて、その感覚体験全体において作品の表現を把握することを、当の作品そのものが求めている。

この作品と観照者とのあらたな関係は、ポロックとニューマンの巨大なキャンバスによって先駆的にあらわれている。とりわけポロックにおいては作品の生成プロセスもまた制作者の身体の関わり方、メディウムのあり方を変容させている。ステラの作品はその新たな視覚芸術の姿を、さらに通常の絵画から離れたあり方によって明示するものであるだろう。

Jackson PollockOne: Number 31, 19501950
© 2015 Pollock-Krasner Foundation / Artists Rights Society (ARS), New York

Barnett NewmanVir Heroicus Sublimis1950-51
© 2015 Barnett Newman Foundation / Artists Rights Society (ARS), New York



重要なことは、単に身体の移動を伴うというのでは終わらない、身体の移動が時間とともに空間=場を生成させ、感情もまた分離できない全体として生成する、身体が主役となる意識形成という事態をもたらす芸術の構造なのだ。身体が主役となった感覚態(=あらわれ)として芸術が出現するということ。これこそが絵画以後の視覚芸術における最も重要な事態であるように思う。
                                         (古川流雄/美術家)

注:インスタレーションも同じだろうという向きもあるかもしれない。しかし、インスタレーションでは空間の存在が前提されて、作品が付加的になる点で今回問題にしている事態とは異なるように思われる。

今回書いた事の多くが桑山忠明の作品にも共通するように思われる。ただ桑山の場合、複数パネル時代から現在のインスタレーションのうちの壁面作品において、より物体的ではあっても絵画の平面が踏襲されてもいるように思われる。平面的なあり方以外は、今回書いた身体と時間が主役となる感覚的な芸術という経験の構造において重なる。名古屋と葉山でのインスタレーション作品は身体と時間と感覚の関係を深く考えさせるものであったように思う。

2015年3月9日月曜日

EVA HESSEと山田正亮  ー 襞 ー

エヴァ・ヘッセと山田正亮
  ー 襞 ー

再びエヴァ・ヘッセについて、襞にからめて少し書きたい。

前回2014年12月ブログに「樹脂の使用には、単なる素材としての意味に留まらない新しいミディアムとしての樹脂の可能性、そして新たな構造につながる形態の可能性が感じられる。」と書いたのだが、これは不十分で不正確な書き方だった。
単に「新たな構造」ではそれまでの芸術形態、形式内部の話になってしまう。ここは「新たな芸術の形成に関わるあり方」と書くべきだ。

いまエヴァ・ヘッセについてどのような評価があるのか私は知らないのだが、昔、語られていた範囲ではミニマリズムの少し変わった作家というようなことだったように記憶する。またはフェミニズムと結びつける見方もあったのか、批判する言葉を聞いたこともあった。

前回ブログではポロック、ルイスと続くミディアムの自発的形成力に続いて、それを3次元の形態に移行させた制作としてエヴァ・ヘッセを取り上げたのだった。同じ視点はロバート・モリスのアンチ・フォーム(フェルト作品)も持っているが、ものの状態の強調なのか、一時的な形態として可変的素材であるフェルトが使われている(インターネットで画像検索すると、以前は見た記憶のない色彩を重ねたフェルト作品もあって、あれは最近制作したものなのだろうか)。 

「歪みの導入=FRPによる自由な形成」とも書いたのだが、これにも間違いがあった。
画集を良く確認してみたら gum rubber mold cast を使用しているので型は使っていた。ただ、先端部分の変形は型とは無関係である。

それよりも重要なことは作品をかたちづくる襞と樹脂だ。

「Sans Ⅱ」1968はエヴァ・ヘッセの代表作と言われるべき作品である。
全体ではおおよそ96,5x655,3x15,6cm、5ユニットからなり1ユニット96,5x218,4x15,6cmとなる。
歪んだ棚のようなそれは、2種類の襞によってかたちづくられている。
外周と中央に横一線に貫く襞と縦に多数並ぶのが大きな襞であり、それによってかたちづくられた上下2段の長方形を横に貫いて視覚的に上下に分けるのがずっと高さも低くて薄い襞である。
作品全体がFRP(ガラス繊維とポリエステル樹脂で作られているので琥珀色に光を透過しながらぬめぬめとした光沢も持っている。
この襞は予め存在する全体を部分に分離、分割しているのではなく、ちょうど受精卵が発生の過程で細胞分裂を起していくかのようである。高さと厚さの異なる2種類の襞があることがさらに分裂過程であるように感じさせる。5ユニットであることもこの分裂の結果としての全体に適う。ぬめぬめとした質感も含めて生物の発生過程に近しいものであることを感じさせる。樹脂の透明感が、部分が部分として分離してしまわない印象をさらに強める。

襞、数の起源としての刻み込まれた線状とも相同的なもの。ヘッセにおいてその始まりは1968年夏に制作された「Area」だろうか。長いラテックスが折り目を付けるように何度も折られ壁から床に広がる。続く「Seam」では襞は中央にあり、やはり壁から床に延びるが、こちらは襞が縦に長い作品を縦断するように中央にある。これは分割ではなくまさに襞の発生だ。外周の形が強いのだが、中央の襞は手前に突出して平たい周辺部よりも存在感が強い。作品全体を生成させる襞と言える。襞は凸、こちらは凹なので逆なのだが大陸のプレートが押し広げられる大地溝帯を思い起こしてしまう。
このヘッセの作品は中央にジップを持つバーネット・ニューマンの「Be Ⅰ」を強く想起させる。

「Area」1968

「Seam]1968

「Be Ⅰ」1949

日本においてこのような作品を制作していたのが山田正亮である。

最もエヴァ・ヘッセを想起させるのが1967年に制作された、Work Cp-413という紙を折って広げられ、明るい灰色(単に灰色なのか、メタリックなグレイなのか印刷では判別できない)の油絵具?が塗られた作品だ。紙の折り目が襞状に突出して、平面作品というよりは3次元と言ったほうが良い作品である。中央部縦に一本通る襞が水平に繰り返される襞を分ける。この中央の襞によって紙の外形から演繹される分割とは異なる、襞それ自体が生れ出ることで広がりとしての表面を押し広げるようなあらわれになっていると思う。エヴァ・ヘッセの「Area」と「Seam」を足したような作品である。

「Work Cp-413」1967

 
その時期のものと思われる山田の紙の作品について文章を残しているのがジョセフ・ラブだ。1981年に出版された「山田正亮 絵画1950-1980」に「山田正亮」と題して「正確な正方形や長方形に折りたたまれた白い紙の作品を見た。そこには概念的なものや純粋に数学的な要素は見られなかったが、黄金分割に近づきながら決して正確に到達しえなかったギリシャ神殿の正面の比率に見られるのと同様の極限の不可欠性の体験があった。見る者に瞑想的な姿勢を呼び起こす静謐さがあった。何かを教示しようとするのではなく、そこにあるのは見る事だけであった」という美しい文章を残している。

今の私は、ヘッセや山田の作品にある「自己生成性」とでもいうべきあらわれに興味がある。そこにメディウムの自発性、自己形成性が一体になった地点を見ている。

(古川流雄:美術家)

参考
1、『EVA HESSE 』 Lucy R. Lippard    New York  New York Univercity Press 1976
2、『山田正亮 絵画1950-1980』 山田正亮画集刊行会 1981
3、『WORKS  YAMADA MASAAKI』 美術出版社 1990