イブ=アラン・ボア+ロザリンド・E・クラウスの「アンフォルム 無形なものの事典」においても、ジョセフ・コススにおいてもポロックがキャンバスを水平に床に置いて制作したことが賞揚されている。
確かに水平状態で制作したことがポロックの表現をそれまでの絵画から大きく変容させているが、そんなに水平にしたことばかりが良いのなら、最終的な作品も水平にして展示したはずだ、と言ってみたくもなる。もちろんポロックは床に水平にして展示してはいない。天井に展示している写真を見たことはあるが。
水平にして制作したことと関わってポアリングと呼ばれる、ゆるい絵の具を注ぐように制作した画期的な制作方法、通常のキャンバスではなく軽い下地(ワニス)のみ、まったく下地を施さないロウ・キャンバス等の使用によって絵の具が染み込んだ状態が生じていること、枠に張らない最終的な大きさすら決めない状態で制作されたこと、最終的にキャンバスを切り取って枠に張ることと描かれた周囲に余白があること(ないものもある)、最後に壁面に垂直状態で掛けられることの全体がポロックの表現を形作っている(これらについては藤枝晃雄著「新版 ジャクソンポロック」東信堂 2007年に詳述されている)。
前回の私のブログでは、モザイク作品における水平での制作過程とテッセラの在り方が以後の制作に影響を与えたのではないかという推論を書いたのだが、今回はキャンバス作品、特に1949年から50年に制作された作品の水平と垂直、空間の由来について考えてみたい。
水平にしたキャンバスにポアリングという方法で絵の具が注がれる(力強く叩き付けるような場合もあるが)ことで、絵の具はほぼ重力方向に従ってキャンバスに到達する。その時キャンバス表面への付着と内部への浸透がキャンバス面に対してほぼ垂直に起こることになる。そうではない場合も含め、絵の具の一部はキャンバスに浸透し、多くは表面にとどまり、制作時間の継続の中で表面に留まった絵具は重なり合うことになる。このキャンバス面での浸透と留まり、そこに絵の具そのものが空間を生じさせる大きな原因があるように思う。
キャンバスの絵の具に対する「受け入れ=浸透」と、「表面への留まり=押し出し」という双方向の性質が、制作後にキャンバスが垂直にされることで明瞭に感じられるようになる。視線をそのままに受け入れる深さの方向を生み出す「受け入れ=浸透」と、視線に向かって来るこちら側への空間の生起を生み出す「表面への留まり=押し出し」の両方が、見ることの中でポロックの空間を生み出す(絵の具の重なりが多い部分では絵の具同士が浅い空間を生む)。これはキャンバスが垂直であるからこそ可能になることだ。
このことを極論すると、より強く「受け入れ=浸透」の方向で表現を継続展開したのがモーリス・ルイス、「表面への留まり=押し出し」を継続展開したのがフランク・ステラの1980年代のレリーフ絵画のようにも思える。
ポロックにおいて最も良いとされる作品、「1:第31番」(1950年)や「秋のリズム:第30番」(1950年)の場合、この2つの空間の生起がバランスよくあって、そこに余白の存在が強く関与しているように感じられるのだ。今回の作品ではかつて日本に来たことがある「第11番」(1949年)が、それほど大きくはないがそのような作品に少し近いと思う。
ポロック作品で「表面への留まり=押し出し」のみが強く感じられる場合、あまり良い表現とは思えない場合があり、今回日本に来た作品では「インディアンレッドの地の壁画」(1950年)がそのような作品と思われる。ポアリングによって施された絵の具とは明度および色相がかけ離れた下地の色と、浸透しづらい下地の性質のせいかキャンバスの「受け入れ=浸透」が感じられない、従って空間が「表面への留まり=押し出し」だけになってしまって硬い表現に見える。
「第11番」(1949年)