マネ ーミディアムの浮上 ー
机の上の、目の前にあるマネの「シャクヤクと選定ばさみ」のポストカードを見ている。
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マネ「シャクヤクと剪定バサミ」1864 |
今年、オルセー美術館展で見た絵だが、その前に三菱一号館美術館での「マネとモダン・パリ」でも見ていた。シャクヤクがたった今、切られて目の前のテーブルの上に置かれたかのようにしどけなく置かれて、一本の茎は逆さまになってさえいる。普通ならば絵のモチーフとしては花瓶などに生けられている花が、ばさっとテーブルに置かれていることで、その花の重量感さえもが生々しく伝わってくるのは、マネによるモチーフの扱いの常套手段とも言え、「オランピア」や「草上の昼食」での女性の裸の登場のさせ方の生々しさと共通するように思う。絵とは異なるが、ロバート・モリスのアンチフォームの作品、壁に吊り下げられたフェルト作品を思い起こすと言ったら言い過ぎだろうか。
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ロバート・モリス「無題」1967ー68 |
シャクヤクは筆にたっぷりとつけられた油絵具によって描かれていて、花や葉のイメージはもちろん伝わってくるが、それ以上に油絵具の存在感、それも柔らなミディアムとしての特質が伝わってくる。油絵初心者が、絵具特有の質感を使い損ねている時のような、そんな生々しい感覚が見てからずっと持続している。マネの絵では油絵具によって描くことの、様々な生々しさがそれ自体表現として使い分けられているように思う。モチーフの扱い方と絵具の扱い方、その両面での生々しさ。
このミディアムの生々しい存在感はそのまま20世紀も後半の、モダニズム絵画に直接結びつくように感じられる。
蜜蝋を混ぜた油絵具によるエンコスティックで描かれたジャスパー・ジョーンズの星条旗、その後のブライス・マーデンのパネルの合成による平面作品。油絵具そのままではないが、生々しいミディアムの存在感という点でマネの油絵具の特質と共通性があるように思える。ジャン・デビュッフェのアール・ブリュットの絵具が、乾いた印象であることとの違いが面白い。一見、ミディアムを強調しているかに見えるジャン・デビュッフェの画面なのだが、結果として伝統的な油絵具のあり方に近くなっていはしないだろうか。例えれば、クールベとマネのミディアムの違いのような。
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ジャスパー・ジョーンズ「石膏型のある標的」1955 |
マネの生々しいミディアムに関連して、もうひとつ思い起こされるのは1980年に開催された「感情と構成」展に展示されていた中村功の3枚のパネル連結による平面作品だ。正方形の大きなパネルが三枚接続されていて、その表面は混ぜ物(トランスペアレント・メジューム?)によって半透明なグリース状になった油絵具が、混色された暗い色調でさざ波のようにざわついていた。その展示以前にも当時京橋?の古いビルの最上階?にあって階段を歩いて登った現代芸術研究室で、小さいサイズの作品に出会っていたのだった。そのミディアムのあり方は、それまで見た事がなく衝撃を受け、思わず指で触ってしまった覚えがある(写真は「感情と構成・展」カタログ表紙と中村功1991年作品)。
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「感情と構成・展」カタログ表紙 1980 |
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中村功「意勢34」1991 |
ミディアムそれ自体が新しさを感じさせて表現となっていた。形式的なあれこれよりも手前で、語りにくい場所で、ミディアムは感覚に直結して分ちがたく語り難く目の前にあったのである。
このミディアムのあり方の先には、それ自体が表現のありよう全体に影響を及ぼして、視覚芸術を組み替える、そういう地点がある。